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魔界からの襲撃をからくも退けた旺真だったが、己の力不足を痛感する。
ということで旺真は仕事も辞めて、フルーレの稼ぎに頼りながら今日も修行に励みます……!
フルーレもバイトが本格化し、そのバイト先では人間界で初めての友人ができたりもして、亡命生活にもこなれてきた──そんなある日。
急激に動き出す事態に、旺真とフルーレは生き残ることができるのか!?
日常と非日常が隣り合わせの第二巻! ぜひご一読ください!
イブのいざこざから一両日経った十二月二六日、
マネージャー兼コーチでもあるフルーレ・ティ・サウードは、修行の様子を見守っている。
さらには、フルーレのお付きで侍従長でもあるアストリッド・ベックも立ち会っていた。
そんな二人のサポートを受けながら、旺真は、堤防上のジョギングコースを往復し終える。
肩で息を切らしている旺真に、フルーレは、スクイズボトルとフェイスタオルを差し出した。
「旺真、お疲れさま。水分をどうぞ」
旺真は「サンキュ」と言って受け取る。そんな何気ないやりとりに、フルーレはなぜか胸の高鳴りを感じていた。
だからその高鳴りを押し込めるかのように、フルーレは旺真に小言を告げる。
「だいぶ体力が付いてきましたが、この距離で、息を切らしているようではまだまだですね」
「まぢかよ……高校生のころのタイムで……つまりオレの全盛期だったタイムで走破したぞ?」
「走る程度で息を切らせているようではまだまだ、という意味ですよ」
「走っても息が切れないって、どんなバケモンだよ……」
旺真はため息をつきながら、汗を拭いて水を飲んだ。
そんな旺真に、フルーレは無意識のうちに見入っていたようだ。水を飲み終わった旺真が、フルーレの視線に気づいて首をかしげる。
「どうしたフルーレ? 人のことじっと見て」
「えっ……!? あ、いえ……っていうか、べ、別に、旺真のことを見ていたわけじゃないんですからね!?」
「なぜ急にツンデレ?」
「いえだから! あのその……あ、そうそう! 水分を飲み過ぎると後がツラくなると言おうとしただけですから!」
「まるで今思いついたような口調だけど、まぁ確かにそうだな」
旺真はスクイズボトルをフルーレに返すと、再び汗を拭きながら聞いてきた。
「それで、このあとのメニューは?」
「えっと……そうですね……」
フルーレは、旺真から借りたタブレットPCを見る。
そこには、先日までにまとめた旺真の修行メニューが書かれているのだが、胸の動悸がどんどん大きくなっていき、書かれている文字がぜんぜん頭に入ってこない。
今日は、旺真と併走しているわけでもないのに一体どうしてこんなに顔が——いや体中が熱く火照っているのだろう?
その理由が分からずに、フルーレはしどろもどろになっていると、旺真が首をかしげて近寄ってくる。
「どうしたんだ? アプリが開かないのか?」
いつの間にか旺真がフルーレの隣に来ていて、タブレットを覗き込んでいた。すぐ間近に旺真の顔が近づいていて、フルーレは思わず——
「ひゃう……!?」
——と妙な悲鳴を上げてしまう。
「おわっ!?」
その拍子にタブレットが手から滑ってしまい、危うく落としかけたところを、旺真が空中でキャッチした。
旺真が、安堵のため息をつきながら言ってくる。
「おいおい……タブレットの扱いには気をつけてくれよ」
「す、すみません……」
「ってかどうしたんだよ? そんなに慌てて」
「いえその……別に慌てていたわけでは……」
「でも顔が真っ赤だぞ?」
旺真にそう指摘されて、フルーレは、頬がますます赤くなるのに気づいた。
「べ、別に赤くなんてありません!」
「いやけど……明らかに真っ赤で、湯気でも噴き出しそうなんだが……」
「気のせいです!」
「だけど……風邪でも引いていたら大変だし」
「違いますってば!」
「じゃあ一体どうしたって……」
「旺真が汗臭かっただけですよ!」
本当は、旺真からはとくに汗の臭いを感じなかったし、むしろ、その汗は輝いてすら見えていたが、適当にごまかすため、フルーレはそんなことを口走る。
フルーレにとっては軽い嘘だったのだが、しかし旺真にとってそれは非常にキツい一言だったようだ。
「あ、あれ……旺真? どうかしましたか?」
さっきまで、長距離走の余韻で赤く上気していた旺真の顔は、面白いくらいに青ざめていき、やがて、がっくりと膝を突いて四つん這いになった。
「あ、あのぅ……旺真?」
おそるおそるフルーレが声を掛けると、旺真がボソボソとつぶやいている。
「し……仕方がないじゃないか、運動しているんだから……そりゃ魔族は、長距離走ごときで息を切らせなければ、汗を掻くこともないんだろうけど……ってか、もし運動部の女子マネがそんなこと言い出したら、その部はおしまいだぞ……」
「いえあのその……そ、そんなに落ち込まなくても……」
図らずも旺真を撃沈させてしまったフルーレが慌てていると、今まで傍観していたアストリッドが言ってきた。
「フルーレ」
「な、なんですか? アストリッド」
「年上の男性に『クサイ』は致命傷よ」
「そうなんですか!?」
「そうなのよ。例えどんなに加齢臭が酷くても——」
「おい待てアストリッド!」
アストリッドのその台詞を遮るように、旺真がガバッと立ち上がる。
「加齢臭の話なんて出てないだろ!?」
「似たようなものでしょう?」
「オレはまだそんな歳じゃない!」
「………………体臭って、本人は気づかないものだから」
そう言って目を逸らすアストリッドに、旺真の勢いは急にしぼんでいった。
「え……? あ、あの……ちょ、ちょっとアストリッドさん……? ご冗談ですよ、ね……?」
「だ、大丈夫ですよ旺真!」
本気でたじろいでいる様子の旺真に、フルーレはなんとか励まそうとして言った。
「旺真は臭くなんてありません!」
「ちょっとフルーレさん!? そのびみょーな励ましはぜつみょーに傷つくんですが!?」
「びみょーではないですよ! そもそも汗臭いというのは嘘ですから!」
「はぁ!? じゃあなんでそんな嘘ついた!?」
「そ、それは……!」
そんな言い合いを始めた旺真とフルーレを、アストリッドが冷めた視線で眺めている。
しかしフルーレは、楽しいのか苦しいのか恥ずかしいのかまるで分からないその感情に翻弄されて、アストリッドの視線には気づかないのだった。
魔界の帝位継承戦に嫌気が差して、フルーレが人間界に出奔してみれば、転移の座標位置を間違えて大気圏突入し、東京の高層ビルに激突。
そうして出会ったのが倉本旺真という男性だった。
着の身着のままどころか、大気圏突入時に、装備品はおろか衣服さえも焼失してしまったフルーレは、出会ったばかりの旺真に頼らざるをえなくなる。人の良さそうな旺真は、フルーレの身を案じて、世話を了解してくれた。
見た感じ親切そうな青年だったが、とはいえフルーレも女子の身だ。独身男性に世話をしてもらうのは何かと心許なかった。体力で人間に負ける気はしなかったが、不意を突かれてしまう恐れもある。
例えば、鉄製の手錠で手足を縛られては、如何に体力があってもそれを引きちぎることなど、魔力の弱いフルーレにはできないのだ。
そこでフルーレは、旺真に魔力供与を行うことにした。そうすれば強制力が働くから、旺真はフルーレに逆らうことができなくなる。
そもそもフルーレは、単身で人間界に出奔すると決めた時点で、人間に魔力供与はするつもりでいた。だがそれは、人間界にある程度慣れて、複数の人間と知り合った上で、厳正な面談を重ね、本人の同意のもとに行うつもりでいた。
もちろん、女性を想定していたのは言うまでもない。
何しろ、供給の方法が方法なのだ。女性だったとしても抵抗がある。
もし、人間界でしかるべき設備を入手できるのなら、輸血か何かで済ませたいとも思っていた。
であれば、医師や看護師などの人間のほうが都合いいが、そうなれば血液型の適合はどうなるのかとか、魔族と人間とで輸血しても大丈夫なのかとか、いろいろ調べることも増えそうだった。
魔力供与できることは魔界でも古くから分かっているのだが、それを実行した魔族はここ百年以上いなかった。したくないというよりは、する必要性がなかったためだが、いずれにしても、魔力供与に関しては情報が少なすぎた。
強制力が本当に発動するかも、フルーレは文献で読んだ程度にしか知らなかった。
だからフルーレはあれこれ調べて慎重に計画し、そうして満を持して人間界へとやってきたのだが……その結果が、装備品と活動費をすべて失い、異性の前で全裸を晒す、という大失態。
そのときのことを思い出すと、フルーレは未だに顔から火を噴き出しそうになるので、できる限り思い出さないようにしている。
いずれにしてもフルーレは、従者としてふさわしいかどうかの見極めもできないまま、破れかぶれで旺真に魔力供与した。
そのときは平静を装っていたが、内心は不安で渦巻いていたのだった。
だが数日経っただけで、旺真を従者にしたことは結果的に正解だと思えるようになった。
旺真は、体はひ弱だし、すぐ弱音を吐くし、性格もちょっと根暗な感じがするのだが……とにかく真面目なのだ。
そして、フルーレのお願いは断れないというお人好しでもあった。
ある意味、従者とするには最適な人材と言えた。
身体が脆弱過ぎるのがいささか心配だが、魔界からの襲撃なんて来るはずがないと思っていたし、実際に修行を始めてみれば、旺真は思いのほか乗り気のようだったしで、フルーレにとって旺真と出会ったことはむしろ幸いだった。
数日間の共同生活でフルーレはそんなことに気づき、その生活がますます気に入るようになる。
何しろ、皇城でのお姫様暮らしとはまるで違っていた。
秒刻みのスケジュールもなければ、面倒な処世術も必要ない。気難しい官僚や、畏怖しか感じない父王や兄たちもいない。
古びた六畳一間は、皇城の馬小屋より狭いのに、そこには無限の自由を感じられた。
唯一の不満を上げるとすれば、旺真の仕事仲間に女性がいたことだが……旺真は、
女性の影がチラつくのは目障りではあったが、仕事絡みであるというのなら仕方が無い。そのくらいは大目に見るのが大人の女性というもの——と思っていた矢先の事態、それがクリスマスイブだった。
あろうことか旺真は、魔界の姫であり、旺真の
さぁいったい、どんな罰を旺真に与えましょうかしら——と思っていた直後、フルーレたちは襲撃を受ける。
しかもその襲撃者は、フルーレの顔なじみであるアストリッドだった。
まさか、アストリッドが本気で自分たちを襲撃するだなんて思えなかった——あるいは思いたくなかったが、それが父王の命令であるというのならあり得ない話ではない。
しかも自分たちの陣営と言えば、まだろくな魔法も使えない旺真と、対魔族にはまったく無力なフルーレしかいない。アストリッドは戦闘要員でないとはいえ魔法には卓越している。そんな彼女に敵うはずもなかった。
そうして絶望的な戦いを強いられるも、旺真の奇策によりアストリッドを撃破することに成功する。
あまりにも考えなしの策で、お世辞にも格好が良いとも言えない旺真の反撃だったが——どんなに痛めつけられても決して諦めない旺真の姿を見て、フルーレの中に、感動にも似た感情が芽生えていた。
そもそも旺真は、単に巻き込まれただけだ。
魔族でもなければ、姫を守る騎士でもない。
フルーレが恋い焦がれていた自由を、フルーレ自身が旺真から奪い取ったのだ。
自分のわがままのためだけに。
だというのに旺真は、フルーレと別れたくないと言ってくれた。
未だかつて、こんな忠誠を示してくれた相手なんて誰一人いなかった。近衛隊の魔族だってそんなこと言ってはくれなかった。
ある意味では、アストリッドはそれに近い存在ではあるが……どちらかというと親代わりだったし、そもそも感情の起伏に乏しいので、常日頃から何を考えているのか分からない部分がある。
だから旺真の、あの言葉と行動は、フルーレの胸を熱くする何かがあって——それからだった。
旺真を見ると、どうにも動悸が収まらなくなったのは。
旺真と目が合うだけで全身が熱く火照るし、胸が苦しくなるし、だというのに、旺真とおしゃべりしていたいし、その手に触れていたいとさえ思ってしまう。
この矛盾した感情に、フルーレはまったくもって翻弄されていた。
だからこそ、アストリッドの存在がちょうどいい隠れ蓑になることを、フルーレはのちのち思い知ることになるが、そもそもフルーレは、アストリッドの処遇を考えなければならなかった。
魔界でのアストリッドの立場は侍従長で、フルーレの教育係でもある。だからフルーレに対して意見を言えるし、その行動をいさめることも可能だ。
しかしだからと言って、魔王直系の皇族であるフルーレを襲撃するのは、本気でなかったとしてもやり過ぎだ。もし魔界に帰れば、反逆罪として死刑になりかねない重罪である。
もっともそれはフルーレが訴えればの話で、元よりフルーレはそんな訴えを起こす気もなかったが。
アストリッドのしでかしたことは、あくまでもフルーレの身を案じてなのだ。旺真を酷い目に遭わせたのは許せない気持ちもあるが、しかしそれも幻術だった。アストリッドは、元より危害を加えるつもりがなかったのだろう。
アストリッドの自白を聞く限り、操られていた実花も酷いことをされたわけではなかった。お互い合意した上での協力関係といったところなのだろう。
だからフルーレは、今回のアストリッドの襲撃は、基本的には不問にするつもりだった。
しかしだからといって、このままでいいはずもない。
そもそも、沈着冷静なアストリッドが襲撃までも企てたという事実が、フルーレが魔界から出奔したことは、自分が考えている以上に一大事であることを突きつけていた。
一大事ということのほうが、フルーレにとっては気がかりだった。
襲撃なんてまずないと思っていたが、魔界からの出奔は、フルーレが考えていたより遙かに危険な行為だったのかもしれない。
ということは、アストリッドの他にも襲撃を企てている魔族がいるかもしれない。そしてその心当たりがないとも言えないのがフルーレの生い立ちだった。
継承戦の混乱に乗じて他国が皇族暗殺を計画している、なんて考え始めたら切りがなくなる。
しかしフルーレは、アストリッドの言う通りに魔界に帰るだなんて考えられなかった。
何よりも、命を張ってくれた旺真に申し訳ないという気持ちと——いやそれ以上に、旺真と別れたくなかった。
となれば旺真を魔界に連れて行くという案も頭をよぎったのだが、今の魔界の情勢を考えると、とても危なくて人間を連れて行くことなんてできそうにない。
もし旺真が誰かに殺されてしまったなら、本当に二度と、旺真と会うことができないのだ。それを少しでも考えただけで、フルーレの胸は強烈に締め付けられる。
だから、少なくとも皇位継承戦が終わるまでは、絶対に、旺真を魔界に連れて行っては駄目だ。そもそも旺真の都合だってあるのだ。人間界で国外に連れて行くのとは訳が違う。
そうなるとアストリッドの言う通りにすることもできないし、さりとて、アストリッドをこのまま魔界に帰すのもまずい。
アストリッドの事だから、見逃された恩なんて歯牙にも掛けず、絶対にまた仕掛けてくるだろう。フルーレを魔界に連れ戻すために。
そうして今度仕掛けられたなら、一切の手加減はしてくれないはずだ。入念な準備のもと、
つまり襲撃自体は不問にするとしても、アストリッドの行動には何かしらの制限をかける必要がある。
だからフルーレは一計を講じた。
「アストリッド……あなたが行ったことは、死罪に問われるほどの所業だということは分かっていますね?」
襲撃の舞台となった台場海浜公園の砂浜で、フルーレはアストリッドに問いかける。
アストリッドが頷く前に、旺真が割って入ってきた。
「お、おいおいフルーレ……いくらなんでも死罪だなんて大袈裟だろ?」
そんなことを言ってくる旺真に、フルーレはつくづくお人好しだなと思った。その感情は、呆れというよりは好意に近かったが。
「旺真、あなた殺されかけたんですよ? そんな簡単に許してしまっていいのですか?」
「殺されかけたって言っても、結局コイツが使っていた魔法は殺傷能力のない幻だったんだろ? オレはその幻に
「まったく、何を言っているのやら……ゲームとはまるで違いますよ。幻術は、本当の戦闘でも使われる脅威なのですからね。状況によってはショック死してしまうかもしれないんですよ?」
「そうなのか? まぁでも結果的にはこうして生き延びたわけだし、それに、魔族の戦闘力を様々と見せつけられたのはいい教訓になったし」
「旺真は本当に人がいいですね……それが
フルーレは、ため息を一つ付いてから話を続ける。
「ですが、わたくしは別に、アストリッドを死罪に問いたいわけではないのです」
そうしてフルーレは、再びアストリッドを見据えてから言った。
「とはいえ死罪に等しい罪を犯したのは事実なのですから、それ相応の報いを受けて頂きます」
死罪相応の報いと聞いても、アストリッドは顔色ひとつ変えることなく言ってきた。
「それはどんな刑なのかしら?」
「わたくしと契約魔法を結んでください」
契約魔法というのは、文字通り契約を締結するための魔法だが、その際に双方の魔力を使用する。こうすることにより、この魔法の元で結んだ契約は絶対に破棄することができない。
例えば、魔王とフルーレが契約する場合でも、魔王は魔王自身の魔力によって契約魔法を発現させるので、フルーレの魔力が弱いとしても関係ない。
つまり自分で自分に枷を填める行為とも言えるが、だからこそお互いの合意が必要になる。そこが、魔力供与の強制力と契約魔法との違いでもあった。
その契約魔法という単語を聞いて、アストリッドは小さく嘆息付いた。
「なるほど……あなたを魔界に連れ戻さない契約をするってことね?」
「その通りです」
フルーレが頷くと、アストリッドはいっとき瞑目する。様々な施策を巡らせているのだろう。
そうして出したアストリッドの答えはこうだった。
「一つ条件があるのだけれど?」
「敗者のあなたに条件を出せるとお思いですか?」
フルーレのその厳しい視線に、しかしアストリッドは鼻で笑った。
「一体いつ、わたしが負けたというのかしら? 雌雄を決したいというのなら、今度は本当に、そこの彼を半殺しにして、あなたを魔界に連れ戻してもいいのだけれど?」
そう言われ、旺真は二人の間に割って身構える。
だが不穏な空気が破裂する前に、フルーレは小さく頷いた。
「分かりました。その条件というのを聞いてあげます。ですが、こちらが飲めない条件だったなら——」
「そんなに難しい条件ではないわ」
アストリッドは肩をすくめてから言った。
「わたしも人間界に残ることにするから、これまで通り、あなたの側に置いてくれない?」
その条件を聞き、フルーレはなぜか嫌な気分になった。
別にアストリッドのことを嫌っているわけでもないし、むしろ魔界では、終始彼女が付き添っていたのだから当たり前の事だ。
だというのにどうして嫌な気分になるのか?
以前と同じ状況になるだけで、アストリッドが大人しくなるのならむしろ好都合ではないか?
契約魔法といっても完璧ではないのだ。旺真が、強制力の裏を掻いたように、契約魔法も裏を掻く方法はあるはずだ。
とくにアストリッドは頭が回るから、魔界に戻らせたら、間接的にフルーレを連れ戻そうとするかもしれない。
だからフルーレの目の届く範囲にアストリッドがいてくれるほうが、自分に取っても都合がいいはずだった。
(皇城での生活を思い出すから嫌なのかな……?)
なぜ嫌な気分になるのかは、そのときは分からなかったが、しかし、気分の問題だけでアストリッドが出した条件を突っぱねるわけにもいかない。彼女が出してきた条件は、相当に譲歩されているのはフルーレにも分かっていた。
フルーレはため息と共に頷く。
「分かりました……ではその条件で契約魔法を結びましょう」
こうして──
──フルーレとアストリッドの間で契約魔法が締結されて、アストリッドも人間界に居座ることになった。
帰り際にアストリッドは、気絶したままの実花を自宅まで送ると言ってきた。人間界に来てからのアストリッドは、実花の自宅マンションに居候していたそうだ。
実花を抱えながら、アストリッドが言ってくる。
「彼女を送ったら、あなたたちに合流するわ。いいわね?」
アストリッドのその台詞に、旺真が頷く。
「分かった。そうしたら住所を——」
「住所はもう分かっているわ」
そんな台詞を言い残して、アストリッドは飛翔魔法で飛び去っていった。
実花と接触した時点で、フルーレと旺真の住まいは把握されていたのだろう。これまで完全に泳がされていたことにフルーレも気づいた。
アストリッドが飛び去ったあと、旺真は大きく伸びをしてからフルーレに言った。
「いやぁ……酷い目に遭ったが、ひとまずなんとかなったな」
「ええ……旺真には、大変な迷惑を掛けてしまいました……」
「フルーレの面倒を見るって決めてから、覚悟はしてたさ。思いのほか急展開だから焦ったけどな」
旺真は屈託のない笑顔で言ってくる。
「結果的には、ちょうどいい予行演習だったよ。気合いも入ったしな。今後、本当に戦闘が発生したときを想定して、しっかりと修行しないとだな」
「…………!」
その旺真の笑顔に、フルーレは、どうしても胸の高鳴りを抑えられずにいた。
熱く火照る顔を前髪で隠すようにうつむいてから、その感情を掻き消したくて、フルーレはつい憎まれ口を叩いてしまう。
「そ、そうですよ。今後は、より厳しい修行にしますからね?」
「はいはい、どうぞお手柔らかに。そうしたら帰るか」
旺真が歩き出したので、フルーレもその隣に並んで歩き始める。周囲を見ると、アストリッドが発現していた睡眠魔法はすでに解かれていたようで、人々が不思議そうに当たりを見回していた。
そんな様子を眺めながら旺真が言ってくる。
「浜辺でみんなが寝入っていたとか、妙なニュースにならなければいいけどな」
「人間界は、この程度のことでニュースになるんですか?」
「人間界、というよりこのニッポンでは、だな。まぁそれだけ平和ってことでもあるんだが」
「そうですか……であれば今後は、魔法発現にはますます気をつけないとですね……」
「そうだな。不可思議な現象で世間がざわつくほどに、魔界に感づかれる可能性も高まるしな」
そんな話をしながら、高架上に設けられたお台場海浜公園駅までやってくる。
プラットホームに上がってきたときには会話のネタもなくなって沈黙が降りた。
電車を待つ間、フルーレは旺真の横に突っ立って、チラチラと旺真の顔を盗み見る。
旺真は、少しぼーっとしているようだった。会話が途切れたというのに、とくに何か気を使うような素振りもない。
始めての戦闘で疲れているのかもしれないが……しかしフルーレは思う。
(わたくしがこんなにドキドキしているというのに、旺真はなぜそんなに平静なんですか……!?)
電車が到着して乗り込むと、フルーレと旺真が乗った車両に乗客はいなかった。衆目の目がなかったせいか、フルーレは八つ当たり気味に突っかかる。
「ちょっと旺真?」
「んー……なんだ?」
「なんで黙りこくっているのですか。なんでもいいから、何か面白い話をしなさい……!」
「はぁ? いきなり面白い話と言われても……何も思いつかないんだが……」
「じゃあなんでもいいから話してください……!」
「なんでもいいから話せと言われても」
「女性をエスコートしているのに、だんまりとは何事かと言っているのです……!」
「ええ……? そ、そんなことを急に言われても……」
「だから旺真はモテないんですよ!」
「いきなり酷くね!?」
八つ当たり気味から始まった会話だが、それがキッカケとなって、なんだかんだとたわいもない会話が始まる。
しかしフルーレは激しく後悔していた。
(ああ……! わたくしったら、旺真がせっかくがんばってくれた直後だというのに、なんでこんな文句ばかり……!)
「あのー、フルーレさん? 聞いてます?」
「あ、はい!? もちろん聞いてますよ!?」
電車に乗り込んだ後もたわいもないことを話していたが、後悔と自責のせいで、フルーレは話の内容が頭に入っていなかった。
とはいえ、会話を強要した手前、聞き返すわけにもいかない。だからフルーレは、少し間が空いたところで差し障りのないことを切り出した。
「ところで旺真……お腹空きませんか?」
「あー……そう言われてみれば、そうだな」
旺真は、車窓から見える台場の夜景を眺めながらぼやく。
「せっかくの高級料理も食べ逃したし……」
その台詞で、フルーレはハタと思い出す。
「……そう言えば、今夜は実花さんとデート、だったんですよね?」
フルーレは、魔界の事情に旺真を巻き込んでしまったことをすごく後悔していたし、それなのにフルーレを守ってくれたことに感謝もしていた。そしてつい今し方、話題を無茶ぶりしたことも反省した——ばかりだというのに、目が据わっていくのを自覚せずにはいられない。
そんな半眼で旺真を見てみれば、顔を引きつらせて旺真が口を開く。
「あっ……い、いやそのだから、デートとかではなくてな? これはあくまでも、日頃の感謝と、突然の退職のお詫びとして……」
「今、『口を滑らせた!』と考えていたでしょう?」
「いいいいや、そんなことは決して……」
実花のことを思い出すとイライラが募ってしまい、やはりどうしても旺真にきつく当たってしまう。
自覚はあるのだが抑えきれずに、フルーレはツンとした顔で言った。
「正直に言わないのなら強制力で……」
「いやいや待て待て……! 分かった、嘘はつかない。っていうか本当に、小田さんには日頃の感謝を示そうとしただけなんだ。フルーレを連れていけなかったのは、予約チケットが二名分しかなくて、あとクリスマス当日に予約人数を増やすこともできなくて。キミをのけ者にしたかった訳じゃないんだよ」
わたわたと言い分けをしてくる旺真を見ている限り、本当に他意はないようだった。それはそれで、実花のことが不憫に思えてきた。
だからフルーレは、その同情心から少し溜飲が下がる。
「まぁ確かに、嘘を言っているようには見えませんが……」
「そうだろ? なんなら、この件に関しては強制力で問いただしても構わない」
「ですが……だったらなおさら、なぜ、実花さんとふたりっっっきりで食事に行くことを隠したんでしょうねぇ? 会社の送別会だなんて嘘をついて」
「う、うぐ……そ、それは……」
「強制力を使いましょうか?」
「い、いや待ってくれ……!? だから……その……」
旺真は、しばし逡巡する。
電車がレインボーブリッジを走り出すと、車窓からは台場の浜辺と夜景が見下ろせた。
さきほどまで、あの浜辺で戦闘が繰り広げられていたとは思えないほどに平穏な光景だった。
旺真は、そんな夜景とフルーレを交互に見ていたが、やがて観念したかのような声を出した。
「送別会と嘘をついたのは……悪かったよ。フルーレが怒ると思って……」
「ふぅん? 旺真が他の女性とデートをするのに、どうしてわたくしが怒らなくちゃならないんですかねぇ?」
「そ、それは……まったくその通りでして……」
「まるでわたくしたちが恋人同士で、わたくしが旺真に嫉妬してる、みたいな言いようですねぇ?」
「ぐ……い、いや……そう思ってたわけじゃないが……」
「じゃあどう思っていたんです?」
「それはその……ほ、ほら……前に小田さんと引き合わせたとき、フルーレってば、ちょっと機嫌が悪くなったじゃん? だからなんというか、今回も小田さんの話題を出したら怒るかな、と思って……」
「別にわたくし、機嫌を悪くしてなどいませんが?」
「そ、そうだったんですね……いやそれはなんというか、オレの早とちりというかで……」
「あと今怒っているのは、旺真のデートが原因ではないですからね?」
「そ、そうなんですね……」
「あなたが、奴隷の身でありながら、わたくしに嘘をついた事を咎めているだけですから」
「で、ですよねー……?」
なぜか旺真が小さく肩を落とす。言い過ぎただろうか、とフルーレは心配になった。
「まぁでも……」
心配になってきたのと、責めているうちに怒りもだいぶ収まってきたのとで、フルーレは嘆息混じりに言った。
「旺真がわたくしを助けてくれたことに免じて、嘘をついたのは許してあげます」
「そう言ってもらえると助かる……」
フルーレのその言葉に、旺真は胸を撫で下ろす。
「オレが悪かったよ。変な嘘はつかずに、正直に言っておくべきだった。今後はそうするから」
「ええ……そうしてください、本当に」
クリスマスディナーの嘘より、魔界の事情に旺真を巻き込んだ嘘のほうがよっぽど重大だとフルーレは気づき、またぞろ申し訳ない気持ちになってきた。
だから、それをごまかすように付け加える。
「それに、クリスマス本番は明日なのでしょう? 明日は期待していますからね?」
「お、おう……任せとけ……と言っても大したことはできないが……」
「大袈裟じゃなくていいんです。というか、大袈裟なパーティーなんて飽き飽きですから」
あとはたわいもない会話に戻りながら、二人は家路を急ぐのだった。
(Kindle本に続く)
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